Return of the "彫刻三人衆"(3)

展覧会『吉原宏紀個展 GURU GURU』に合わせて行なわれたトークイベントの模様をお届けします。(開催日:2013年6月8日)

モニュメント / アミュレット

生島:重力に抗いたいみたいなものは、人間が本来持ってる感覚なんですかね? その、自分はパフォーマンスとかやってて、ダンサーの人とかと話すようになったんですけど、例えばバレエダンサーとかは地球の重力からなるべく解き放たれた動きをするんだ、みたいな話を聞いて。本当かどうか知らないですけど。で、逆に舞踏の土方巽とかはおもいっきり重力に身を任せた動きをしたみたいな。何か宇宙に行きてぇ!、とか。宇宙に行きたいっすよねぇ? 何か根源的にあるのかなって、人間は。その、三角とかもそうすかね? ほら、吉原君、ピラミッドが好きだって言ってましたけど。

吉原:いや、何か宇宙っぽくないですか? 三角って。今ちょっと無いんですけど、フライヤーに載ってる作品なんですけど、このときは祭壇のつもりで作っていて、先に作品を出さなきゃいけないというのが決まってて、ちょうど地震のあったときで、もちろん、まあそれについて考えないわけはなくて、しかもこれは『mograg magazine』という雑誌に寄稿するために作ったんですけど、そのときのテーマが "giant" というテーマで。で、地震があって、津波があって、テーマが giant って、えーっ!? となっちゃって。で、直接的な、地震とか津波のモチーフを使って何かを僕が作るのは全然違うなっていうのがあって。ガラッと作風を変えれるほどの強いメッセージも無かったし、僕に出来ることというのを考えて、それでちょっと祭壇チックな形態に落ち着いて。で、三角形の話に戻ると、三角形って特定の宗派とか宗教とかに関係なく、どこの国でも出て来るようなモチーフじゃないですか。で、僕自身も特定の信仰があるわけでもないんで、ただそれこそ、アニミズム的なということで言えばあるだろうし、もちろん正月は祝うし、葬式にも行くし、特定の宗教ではないけれども、何か宗教的なモチーフを入れたいな、というのはあって、それで三角形。あとは、ピンクフロイドの「狂気」のジャケットの影響ですかね。

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2011 giant(『mograg magazine vol.3』より)

生島:彫刻は特にモニュメントとかになりやすいな、という感じがしてて、偶像崇拝の話とかもそうですけど、ものがあることによって人が有り難がっちゃうみたいなところと、すごく繋がりやすいな、という感じはするんですよね。

近藤:でも近現代ではその役割は別の方に転換されて、でも、それが例えば人形とか、でもまあ、宗教彫刻とかは今でも当然あるんですけど、その派生物として、信仰の対象とはまた違って、モニュメント的なものが出て来てる、でもそれでもやっぱりそれを信仰しちゃうみたいなところはあると思うんですけど、勝手に人々が。どうしても発生することですよね、モニュメント的なことは。

生島:やっぱ、発生しちゃうからどうしても使わざるを得ないというところはあるんですかね。吉原君とかけっこう宗教が、という話とかも、古賀君もけっこうそういう話とかしてましたけれども。この前、モニュメントとアミュレットの話とかしてたときですけど。

近藤:どういう流れで?

古賀:彫刻とは何かという問いに、小泉晋弥さんという評論家の方がいて、講義を大学で聞いたんですけど、その方が言うには、彫刻とはモニュメント:記念碑と、アミュレット:儀式のときに使う装身具の中間にあるものだ、という定義をされてて、そのとき僕は、はぁーっとか思ってたんですけど、彫刻とはと考えるときに起点になる言葉ではあるなあ、と思いますね。まあ、解決はしてないですけど、自分の中で。

吉原:木を立てるとか、何かものを立てる、石でも何でもいいんですけど、そこに何か別のエネルギーが生まれて、そういう周りで執り行われる神事とか祭事という、そのエネルギーを発生させる装置としての機能だったりとか、そこで使われてた器具みたいなものが彫刻の発生じゃないかな、ということをこのときは考えてて、ギャラリーを洞窟というか祠というか、そういうものに見立てて、その中に祀ってあるものとして展示をしようと、このときはあって。

古賀:小泉さんは洞窟のことも言ってて、山は地球のエネルギーが溢れ出た場所としてその方は言われてて、山にある洞窟に入って行くということは、エネルギーに近づくというか、神の中に入って行くような感覚があると言われてて、確かにそういうのはあるかと。

生島:見ることと崇めることは違うんですかね。吉原君がこれを作ったときは、かなりモニュメント的なものとして、、、

吉原:そうですね。

生島:モニュメントというと、冷静に見るものではない気がするんですけど。

吉原:まあ、御神体というか、御神体というとちょっと違うか(笑)何と言うか、祀ってある感じにしたかったんですよ。で、ちょっと分かりづらいんですけど、奥のやつはびっしりとCDのジャケットが貼ってあって。自分の好きなCDのジャケットを貼って、貼って祀るというのが、自分宗教的にすごく大事だったんでしょうね、このときは。

・土方巽(ひじかた・たつみ)1928-1986 舞踏家、振付家。暗黒舞踏の創始者。
・mograg magazine:東京国分寺にあるアートスペース"mograg garage"が発行する年刊誌。
・ピンクフロイドの「狂気」:1973年発表のピンクフロイドの代表的アルバム。光のプリズムを表現したジャケットデザインはロック史上、最も有名なものの一つ。
・小泉晋弥(こいずみ・しんや)1953年生まれ。茨城大学教育学部教授、五浦美術文化研究所所長。


表面 / 中身

古賀:吉原さんにしても近藤さんにしてもそうなんですけど、"表面" ということに、こだわりがあるように僕は感じてて、今まで彫刻家の中に身を置いてて、表面というものにあまりこだわるものじゃない、という感覚があったんですけど、何か表面に関することを聞きたいな、と。

近藤:何か目の前にものがある。それを視覚的に、ある意味、触覚的にそれを捉えるときに、表面で判断するしかないわけですね。中身は見えなくて。例えば、ものがあってそれをスパッと切ったとしても、それはそのものの中身は見えても、ほんとのその塊の中身自体は絶対に見えないし、わりとそのへんは視覚的にものを捉えるという、自分としてのスタンスというか…、まあ、表面しか信じないというか。彫刻で重要視されがちな素材の持ち味を活かすとか、塊の意識とか、そういうのからは距離を置いてますね。塊の意識って言うのは、もっと言うと塊に対する賛美みたいなのがあって、表面は塊の結果にすぎなくて、重要なのは中身だみたいな感じっていう。そういう側面はあると思うんですけど、ひとつ何か違うかたちで僕は捉えてるかな、と。で、まあ、表面しか、"しか" ってことはないでしょうけど、表面を信じたいみたいのがあって、自分の作品は、そこにかなり想いがありますね。表面をどういうふうに作るか、というか、上手く言えないけど、表面に対する想いはありますね。

生島:ものが、塊があって、それを切って中を見たって、その本質が見えない、みたいな話?

近藤:いや、ということではないけど、

吉原:中だと思っても、その時点で表面になってるということですね。

生島:ああ、切ったらそこはもう表面で、永久にその中身というものは見えない。

近藤:見えない。

生島:でも中身の何らかの作用とか、エネルギー的なものは常に外に出て来るっていうことですかね?

近藤:うーん、というか、見えないところというのは、本当にそうなってるのか分からない、という単純なそういう感じとして、表面は、まあそれすら怪しいと言えば怪しいですけど、自分にとっては少なくとも、これは目の前にあることなので、とりあえず良しとする、というか、まあアバウトですけど。

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2010 溶解(2010 art space tetra「自己乖離」より)

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2010 キマイラ Chimera(2010 art space tetra「自己乖離」より)

生島:表面と中身という話だと、テトラで出したこの作品とか『溶解』、そのものずばりですけど、これとかは、外側が溶けちゃったら中身見えるじゃん、という。手がちょっと溶けてる描写があったり、自分がどんどん液体になって行く。近藤君はだいたい自分の姿を彫刻で作るんですけど、こうなっちゃうともう近藤君の姿をした全然別のものみたいな…。でも、自分はこういう水っぽいところもあるよ、みたいな(笑)

吉原:水っぽいって何なんですか!?(笑)

近藤:…いや、そういうメッセージは全然無いんですけど…。"溶ける" ということで言うと、さっきの内と外みたいな問題とは離れるんですけど、この作品の中の時間の経過みたいなものを出そうとした、というのと、その時間と、それを見る、実際に展示されてる状況の時間とを混ぜこぜにしたいというか、状況が二つあって、さらにこれ、左腕の半袖の袖の部分、そこのところがポロポロ欠けてるような表現をしてたり、状況をミックスさせて、溶けてる像を作ってるのか、作った像が溶けて壊れてるのか、とか、状況をいろいろ変えて、見てる人の時間に干渉したり出来んもんかな、という、そういう実験ですね。

生島:時間を取り込むみたいなことだと、古賀君とかかなり入れて来てる気がするんですけど。さっきの蝋のやつもそうだし、これとかは鍾乳石とかをイメージさせる、これとかも、育ってますよ、みたいな。大人になりましたよ、みたいな。

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2012 「まちなかアートギャラリー福岡」より

古賀:ああ、そうですね。僕の場合は素材から入ったんですけど、セメントって巨大な建造物とかを作るときに使われる、非常に強度の強いものなんですけど。物体が生成される時間ってのを考えてて、石とかは細かい粒子がすごい長い時間をかけて固まったものじゃないですか。木は木で、何十年もかけて育ったものなんですけど、そのものが出来る時間によってそのものの耐久度が変わるっていうか、石は長い年月をかけて作られたからその分長く風化されないであるし、木は枯れるまでに長い時間がかかるんですけど、セメントは人工物で、その分弱い、という側面から素材を見た作品ですね。だからこの作品は触るとすごく脆いというか。

生島:表面の話とか、吉原君はどうですか?

吉原:表面の処理というか、最終的な出来上がりには気を使ってますし、こだわってもいますし、なるべく自然物に見えないようにというのもあります。それこそ、何か塊から表面を彫り出すみたいな、いわゆる彫刻作品を彫り出して行くようなことが彫刻っぽいと思われてるんでしょうけど、別にそんなの関係ないと思うんですけどね。表面が一番遊べるんですね。だから最終的な表面の処理というか、それが一番やってて楽しいとこだし。僕なんてただひたすら木を磨いてるだけだから、作ってる間は全く楽しくも何ともないんです。ひたすら労働みたいな(笑)で、最後にようやく。

古賀:表面と中身の話でちょっと思い出したんですけど、例えば、ダミアン・ハーストとか牛をぶった切ってそれを見せるとか、赤瀬川原平の宇宙を缶詰にするとか、彫刻家とは違うアプローチで表面と中身を考えてるような気がして、中身を見せないって、わりと彫刻家っぽい意識があるのかなあ、と思ったんですけど、それは僕が好きな若林奮さんって人も中身を見せない作品が、そこに重点を置いて作ってあるんで。僕は全く考えなかったんですけど、お二人が表面にこだわるとか、中身を見せないとかって、吉原さんも木を切ってるけど、切ったところにだけ、写真を貼ったり色を塗ったり、ああいうのも、隠したいという意識があるのかな、と。

吉原:まあ、どうでしょうねえ。最初はそのまま切ったままで進めてたんです。鉋かけたりとかして。何か足りないな、というのがでかいですね。

古賀:木の生っぽさを隠すために、というのは?

吉原:隠す、かあ。隠してるつもりもないんだけど。ああ、でも全面塗装してるやつは確かに隠してると思います。木っぽさというか。

古賀:粘土を貼るというのも、そうですか?

吉原:あれはもう単純に技術的な、仕事の進め方としての問題です。粘土を付けた方がやり易いし、出来上がりがいい、というだけです。

生島:自分は絵を描いてるんで、そっちから考えると…、漢字の「畫(画)」という字が、旧字体の「畫」ですけど、あの最近、漢字学者の白川静の『字統』という本を買いまして、漢字の成り立ちについて書いてあるんですけど、この畫という字を分解して行くと、筆があって、人の手があって、下に盾があって、それを塗ってるという字らしいんですよね。つまり、機能的には塗ってない盾と塗った盾とで全然変わらないんだけど、それを持って敵に対したときに、全然威圧感が違う。盾とかよくかなり装飾されてあって、それがまた呪術的な意味を持ったりすると思うんですけど、たぶん、吉原君が色を塗ったりというのは、ものの持つ意味というのがねじ曲がるというか、そういう感じがするんですよね。

吉原:うん、そうですね。

生島:絵とかはまさに、一筆「畫」って書いたときに、立ち上がって来る何かみたいなものを、どんどん増幅させて行く作業、あるいは、削ったりということをずっとやっていると思うんで、そういう意味でやっぱ絵的だな、という感じが自分はするんですね。

・ダミアン・ハースト(Damien Hirst)1965年生まれ。イギリスの美術家。死んだ動物をホルムアルデヒドによって保存したシリーズが有名。ここで言及されている作品は1993年発表の"Mother and Child, Divided"と思われる。グロが苦手な人は閲覧注意。
・赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)1937年生まれ。美術家、小説家。ここで言及されている作品は1963年発表の『宇宙の缶詰』。この冗談(のような)作品から、人によっては深い哲学的思索にまで繋げて行くことも可能らしい。
・若林奮(わかばやし・いさむ)1936-2003 彫刻家。鉄、銅、鉛などの金属素材を用いた彫刻を制作した。


イメージ / 素材

生島:最近、俺は思うんですけど、絵って存在しないんじゃないのってすごく思ってて。ただの人間の中にあるイメージとか、物語とか、言葉とかそういうものしか扱ってないんじゃないかなと。まあ、物質と言えば物質なんですけれども、ただの絵の具だし、それ自体に意味は無いというか、やっぱりすごく観念的なものなんじゃないかな、と思ってて。彫刻というのは絵に比べると、ものとしてある、というか、そこがけっこう自分としては羨ましいんですよ。あまりものが描ける人間ではないので。

近藤:今言ったようなことと同様なことを僕も思ってて、絵って観念的だなあって。彫刻って、どうあがいても素材を何とかしなきゃいけない、とか、その意味合いが強すぎて観念的になれない、というか、そこが彫刻たる所以としてあるのかなあ、と。今日話してることを聞いてても、それぞれに素材に抗ったり、何かしてみたり、そこについて何かもどかしさとか、そういうものを感じてるところが、大きいな、というふうに思いました。

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生島:けっこう何かね、日常感覚っていうのが、自分くらいから下の世代にまで、けっこうあるなって。作品自体が小さくなってるってのも、日常の生活の中で作品が出て来るということと直結してるのかな、と思って。美術の権威とか歴史とか、そういうものを抜きにして、まず自分の暮らしから作品を立てて行くみたいな、雰囲気をすごく感じるんですよね、今。

生島:ま、とりあえず、彫刻が今、来てる、という話でした。

近藤:来て…ないと思う。

生島:来てないの!?

吉原:来てほしい!

生島:いや、俺、けっこう来てると思うんすけどねぇ。彫刻、おもろいと思うんですけどね。どうなんすかね。

吉原:いや、最高ですよ!

生島:…という、気持ち悪い感じで終わろうかと思います(笑)あと、投げ銭よろしくお願いします。


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トーク終了後の打ち上げ。モロカレーも大盛況!


(文字起こし・構成:坂口壱彦)

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