展覧会『吉原宏紀個展 GURU GURU』に合わせて行なわれたトークイベントの模様をお届けします。(開催日:2013年6月8日)
彫刻の展覧会ということで、テトラに縁のある彫刻家三人に集まってもらい、彫刻・彫刻家について語っていただきました。司会を務めるのは、この人もまたテトラと深い縁のある絵描き、生島国宜。まずは、福岡市の街中で見ることのできる彫刻作品など、彫刻と言ったときに一般にイメージされるであろう彫刻作品などをスライドで見た後に、各々の作品について語っていただきました。非常にゆるゆるな、和やかな雰囲気の中、イベントは進んで行きました。
吉原宏紀(よしはら・こうき):彫刻家。1982年 福岡県生まれ。2007年 多摩美術大学美術学部彫刻科卒業。 2013年5月、テトラにて個展『GURU GURU』を開催。 | |
近藤祐史(こんどう・ゆうじ):彫刻家。1981年 福岡県生まれ。2006年 東京芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。 | |
古賀義浩(こが・よしひろ):彫刻家。1986年 福岡県生まれ。2009年 多摩美術大学美術学部彫刻科卒業。 2012年6月、テトラにて個展『見なれた海岸線』を開催。 | |
生島国宜(いくしま・くによし)(司会):画家。1980年 福岡県生まれ。2003年 武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。 2008年7月、テトラにて個展『行列と乞食』を開催。 |
アニミズムが信用できるか否か
生島:吉原君は、今回の作品をどういうふうに作ってあるか、といった話からお願いします。
吉原:ちょうど大学を卒業する時期に、自分は予備校から彫刻科で、大学も彫刻科で、なので自分が作っている立体物というものを無条件に彫刻作品だ、と言っていたんですね。で、そういう肩書きというか、そういうものを全部無くしたときに、自分が作っているものを彫刻だ、という根拠がものすごく無いな、と。自分はそこまで彫刻って何だろうということを考えて来てないな、環境に甘えてるな、ということをすごく思いまして。で、彫刻ってそもそも何だろうという問いを自分の中でも持ちまして、そして卒業制作で出した作品は今のものとは全然違うものだったんですけれど、それからその卒業制作の作品展をするまでの間に、今回出しているような小っちゃい木の枝の作品を出したんですね。自分の身近な物で、すごくシンプルな方法で立体像を作る。
2007 ZAIM 「All Tomorrow's Parties」より
生島:この木は、その辺で拾って来るんですか?
吉原:そうです。うちのアトリエの裏が森だったりもしますし、普通に道を歩いてていい感じのものがあったら拾ったりします。まあ、そういう感じでちょっと、最初はまだ自分の中で上手く整理出来てなくて、何で自分はこういうものに引っ掛かるのか分かってなかったので、とりあえずすごくシンプルで明快な方法で、大きいサイズのものは木をひたすら磨いて塗装してるんですけど、小さいサイズのものは厚さが 1mm ないくらいの石粉粘土というものが薄く付いててそれを磨いてるんですけど、別にそれは無いものと有るもので何かコンセプトが違うとかそういうものは全くなくて、木の表面の表情とかではなくて、木の動きとかリズム、それを残しつつ、見知った形なんだけどちょっと違う、あまくなってるというか、そして上にポップなカラーリングだったり、好きなミュージシャンの写真を貼ったりだとか、そういうことをし出したんですね。それが今のシリーズのきっかけです。
2009 秋山画廊 「吉原宏紀展」より
生島:僕は、三人の中で吉原君のものが一番、絵的だなあ、と思ったんですけど、本人に聞いたら絵は全然描かないそうで、ものを貼ったりだとか、塗装もスプレーであるとか、とにかく手技を残さないようにやってるということで。まあ、塗装なんでしょうね。絵を描くというか。塗装の仕事をやって、そしてどうだ、ということをやってるみたいですが。色とかも、貼っ付けてあるものと同じような感じで、そのへんに転がってるような、安易な色とかを選択して来るような感じなんですかね?(笑)
吉原:そうですね。スプレー缶で全部塗装してるんですけど。手仕事の跡を消すというのは、すごく最初の頃思っていて、元々自然物であったものを使っているから、筆のストロークの跡とか、木の表情もそうだけど、そういうものを消して行った方が面白くなるな、というのが単純にありました。元々自然物なので、色のチョイスは、あんまりアースカラーとか茶色とか深い緑とかを選ぶと面白くなくなるんですね。それがあって、出来るだけ色は人工的な色やそういうのを選んでます。この前、近藤さんが色のチョイスの話ですごくいい話をしてくれたので、それを話してください。
近藤:いや、今の話で言うとアースカラーみたいなものを使うと面白くなくなるというのは、それってたぶん "収まっちゃう" からじゃないですか。素材が木で、それを加工してやってる、その自然物を削って何かやってるというところに回収されちゃう。それに収まることを良しとしないというところがあって、そうならないように、こういう蛍光色とか、自然には無いような色合いでやりたいのかな、と思って。更に言うと素材の感じを消したい、と。で、よく語られがちなのが、彫刻を話すときに "アニミズム" という言葉が素材論的な話題の中で特によく出て来るんですけど、そのアニミズム的なところに沿うような作家もいますけど、けっこう多くの人が「え? それってそんなに信用できるものなの?」と、それは日本的なものとして語られることが多いんですけど、それに反するようなかたちでやってるってことがあるかな、と。
戸谷成雄と小谷元彦という彫刻家の対談があって、その中で小谷さんは、アニミズムをあまり信用してない、みたいな話をしたときに、戸谷成雄は、この人はチェーンソーで木をバンバン削ってその削り跡を残すような作品をつくる人なんですけど、小谷さんが「戸谷さんは素材を殺す作業が徹底していると思った」ってのに戸谷成雄は「実際に、『殺してやる!』って叫びながら削ってた」って答えてたっていう。やっぱりアニミズム信仰みたいなものに違和感を感じる人は多くいるのかな、と思います。それで自分も素材の風合に頼りたくない、素材に頼る部分をギリギリにするというか、そういう感じでやってるので、それは彫刻家には素材感に頼りたくないと思っている人は案外多いと思います。
吉原:僕も単純にアニミズム的な作品として回収されるのはもちろん嫌だと思ってるんだけど、別に、植物とか木に命があるんじゃないかという、そういう感覚は皆持ってるんじゃないかと思うし、僕にだってもちろんあるんですが、単純にそれに沿うようなかたちで作るのが、今の自分の生活とか社会、目に触れる、得られる情報とかと考えたときに、それだけだと詰め込めないと言うか、まとめきれない感じがしてて、だからやっぱり、自分の周りにある日常のものだったり、自分が影響を受けたミュージシャンの写真だったりとか、そういうものを含めて今の状況だったり、自分自身のことも含めてですけど、そういうのを何とかうまく絡めて、でも根っこにはちょっと、そういうアニミズム的なこともあるし、でもただそれだけじゃないよ、と何か面倒くさいことを考えながら作ってるんですけど。
2010 mograg garage「散策する 翻訳する」
・戸谷成雄(とや・しげお)1947年生まれ。彫刻家。武蔵野美術大学教授。
・小谷元彦(おだに・もとひこ)1972年生まれ。彫刻家。東京芸術大学准教授
・戸谷成雄と小谷元彦の対談:出典「トーク・セッション:小谷元彦×戸谷成雄「日本、彫刻の可能性」」(『芸術批評誌「REAR」No.25』所収)
彫り出さない
生島:"彫る"って、日常的な動作じゃないな、という感じがするんですよね、自分の中で。で、そういう動作から受ける影響のようなものってあるんでしょうか? 例えば、吉原君とかは、彫らないけどちょっとやするくらいで止めてるんですけど、古賀君とかになると全く彫らないですよね。でも、テトラでやった作品は彫った作品で、でもあまり必然性は無かったという話をこの前やってましたけど。
古賀:そうですね。テトラで展示をしたときは、石筆っていう柔らかい石を彫って、でもその前にセメントの粉を使う作品を作ってたんですけど、それは全くほんとに彫らなくて、その作り方っていうのは、セメントの粉を直接地面に置いて、そこに霧吹きで水をかけて、こういうテクスチャーになって、どんどん鍾乳石の逆みたいな感じで出来上がって行く作品なんですけど、何かそれって、自分の中であまりにも作らなさ過ぎたな、と思って、ちょっと背徳感というか、ずるいなという感じがしてしまって、それで自分で形を見つけるようなことをしたいな、と思って、テトラの展示のときには石筆の作品を作った、ということです。
2012 art space tetra「見なれた海岸線」より
生島:これとか、テトラに出したやつですかね。
古賀:そうですね。
生島:えっと、石筆?
古賀:石筆というのは、蝋石とかって言われてるんですけど、一般的に使うのは、鉄板とかに数字を書き込むときに使うような、
近藤:鉄の工業製品とか作るときに印を付けたり、まあ鉛筆代わりに使われるものです。
2012 art space tetra「見なれた海岸線」より
生島:これはかなり小さい作品ですね。
古賀:そうですね。最初にデッサンして彫る、というオーソドックスなやり方でやったんですけど。これが石筆でやろうかなと思った最初の作品です。
生島:でも、何かしっくり来ない、と?
古賀:僕は彫刻家と言いつつ、でも彫刻的にものを彫ることにあまり向いてないな、と思いましたね。何か、制約が多すぎるというか、技術に頼りすぎるというか。あっ、そうですね、僕は吉原さんとは逆で、大学を卒業したときに彫刻科という専攻から外れて、彫刻をやらなくてもいいのかという安堵感みたいなものがあって、それで彫刻から離れてみようかな、という、そういう意識はありましたね。
生島:でも、今、自分のカテゴライズとしては彫刻家なんですか? 自分の認識でいいんですけど。
古賀:認識的には彫刻家とは思ってないんですけど、便宜上、彫刻家という感じですね。
生島:何だと思ってるんですか? 自分では。立体造形家とか?
古賀:いや、そういう捻ったようなことはあんまり…。
彫刻という分野との距離感
近藤:僕が気になってるのは、例えば僕の場合はいわゆる彫刻らしい彫刻作品を作っている、具象的に形を作り出すという行為をしているんですけど、でも二人の場合は必ずしも他人が、あるいは自分でカテゴライズするときに、彫刻でなくてもいいというか、彫刻ではないと言えるような作品だと思うんです。そこで何故、彫刻という言葉に対してこだわるのか、そもそも彫刻なのか、それを良しとするのかしないのか、彫刻という、かつて自分がいたところ、学んだところからの距離感がどうなのか、というのが一つ知りたいことです。
吉原:彫刻家って何で自分で言うのか、というところなんですけど…、じゃあ、彫刻って何だろう、という今作っているものの創作の起源でもあるので。彫刻という言葉、それから美術という言葉も明治時代に海外から輸入された言葉で、それを過去のものも含めて当てはめていったということがあると思う。それ以前から立体物というのはどこの国でもあったし、もちろん日本でもあったし、それをもう一回再定義し直すというか、そういうことをやって行かなきゃいけないんだろうな、ということを何となく思っていて、じゃあ自分が思う彫刻の起源みたいなものって何だろうと思いまして、まあ、落ちてる木だとか石でもいいんですけど、本来もう朽ちてく、漏れてるものを立てる、とか行為自体、行為をすることで、本来、通常なら発生しないようなエネルギーの場が生まれるんじゃないかな、と。そういうのが彫刻の起源なんじゃないかな、ということをちょっと思っていて、でまあ、木を拾ったりしてるんですけど。だから、いわゆる今使われている彫刻家という言葉からは、ちょっと距離を置こうとしてるのかもしれないけれども、もちろんこれも彫刻らしい…、んん、何ですかね。まあ、アーティストって言いたくないだけっていうのはありますけどね(笑)
近藤:え、それはどういう?
吉原:何か、安くないすか? あの言葉。
近藤:何か最近、僕は抵抗無くなって来た。最初は何か軽い感じがしてましたけど。
吉原:分かんないけど、彫刻家って響きの方がかっこいいって言う(笑)
近藤:古賀君はどうですか?
古賀:自分が過去やって来たことは彫刻だから、そこを否定したくない、というか否定できない自縄自縛的なところがあるかなあとは思いますね。でも、やってることはあまり彫刻っぽくないとは自分でも思ってるんですけど、結局、彫刻というジャンルに接続されるきらいがあって、例えば素材とか方法とかにしても、彫刻科で勉強した人は彫刻の文脈の中で語られることが多いし、自分でもそう扱われることを望んでいる面がある気はします。
近藤:彫刻家、彫刻を学んだことのある人って、彫刻に対する帰属意識っていうのが強いんじゃないか、というのを感じてて。例えば、アジ美でレジデンスに来た作家の方で彫刻を作ってる作家ではなかったんですが、その方が僕の展覧会に来てくれたとき、「俺も彫刻科出身だ」って言ったりとか、まあその他知人とかでも、今その人がやってることは彫刻ではない、写真とかインスタレーションをやってる人でも、「おぉ、俺も彫刻やってたぜ!」みたいな感じの人が何となく多い気がして、という仮説が自分の中であって。そしてあと一個、何でそうなるのかと考えるときに、まあ今回このトークのために、そのことについて考えてたんですけど、本人達も気にしてる部分もあると思うんですけど、周りの人達が、何で彫刻なんてやるんですか、奇特な方だな、みたいな。そこが気になる的なものもあるような気がします。で、彫刻出身なんだけども何故今違うことをやってるのか、とか、彫刻を何でやろうとしたかってところって、まあよく訊かれるかな、と。何となくそういうところがあるような気がして。
生島:まあ、単純に絵とか写真とかに比べたら彫刻ってのは、実際にでっかいものがあって、めちゃくちゃ重くて、それを作業するアトリエとかも絶対広さが必要になってきて、お金もかかるし、みたいなことを考えると、確かに続けて行くことは大変ちゃ大変かもしれないですね。でも、そのへんはかなりマッチョな思想だなって思うんです。俺もまだ筋肉使ってるぜっ、みたいな。まだまだ現役だぜっ、みたいな意識があるんすかね?
近藤:まあ、そういう人もいると思いますけど。何か、不器用な人が多い、とかそういうことなのかも。今さら引けないとか、これしかやれないみたいな、人からしてみれば、よくそんなお金もかかるし、場所もいるし、何でそんなことをわざわざ続けているのか、みたいな感じで訊かれるんですけど、それはそうなんですけど、何か自分がやるときに、いや、これしかやれないんだよなぁ、という実感があって。
・アジ美:福岡アジア美術館