展覧会「EGAMI KEITA NEW DEPARTURE」期間中に行われたアーティスト・トークの内容をお届けします。(全3回)
三嶋 | ガレージって、適当にやるってことなんですよね? |
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江上 | いや、うーん、だから…(笑)。 |
三嶋 | 話をもうちょっと続けさせてもらうと、江上さんはその90年代の後半くらいですか、それまでヨーロッパとかアメリカを中心とした美術史の最先端っていうところを意識したとかいう発言をさんざんされながら、90年代終わりくらいに、もうそれは駄目だと。そんなもんじゃ。何もないのにそんなことやっていたって意味ない、誰にも訴えないしやる意味もねえよ、っていうことを言い、これからは「ガレージだ!」って言う言葉をさんざん言われるようになる。で、IAFとかでもそのガレージとは何かっていうのを言うために、自分が発想をいたるにあたった音楽の話をされる。で、そのガレージ音楽のなかで一番優れている、これが本当のガレージのガレージを体現しているものだっていうときに、もうへなちょこなどうしようもないヘタクソな音楽をそれだと言う。そこって、今の話に矛盾してないかなっておもうんですが。 |
江上 | そうですね。普通に考えると僕がこよなく愛するガレージ音楽は、普通の人が聞いたら「なに、このへなちょこ」っておもうようなものだとおもうんです。でもね、それは要するに、ガレージっていうものをガレージ・ロック、まあロックの話ですけど、それを聞いているとね、その中でやっぱりクオリティを考えてしまうんですよね。これはものすごくある意味ではオタクな話なんですけれど、ガレージっていうものはただ単純にパンキーなものと混同されてしまうんですけれど、パンキッシュなものだけじゃなくて、ほんとにまあいろんなものがあって、その中で僕はガレージのクオリティじゃないけど、そういうものを考えていって、ガレージ音楽としてのクオリティとして一番高いものを目指していくわけ。 |
三嶋 | そういう意味では、今のは高さと低さの連なりの話じゃなかったわけですか? |
江上 | うーん。要するに、まあ、なんていうんだろう。高さ低さっていって、高尚低俗みたいな概念に置き換えてしまえばさ、なんとなく高尚なものなんてものをさ、僕が目指しているわけじゃないわけなんですよ。全然。 |
三嶋 | そうっすか? |
江上 | うん。低俗でもなんでもいいじゃん(笑)。だけどこう、やっぱりこう、高くないといけない。あるこう、崇高さというか、そういうものを感じさせる力がアートになくなっちゃったらやっぱり駄目だ。これベンヤミンが書いていたアウラですよ。アウラがなくなっちゃったらさ、もうお終いだとおもうんですね。だからアウラを、こう、感じ取る感受性みたいなものに、対応するわけじゃない。要するにだから、感受性が敏感になれば、いいんです。そうすれば、普通の人には感じ取れない高さを感じ取れるようになるんだと思う。 |
三嶋 | なるほど。江上さんは明晰な人で、いろんなことを言葉で明確に語られるほうだけれども、やっぱりその、美術の本質っていう部分では、やっぱりこう、神秘論があるわけですね。アウラとか。 |
江上 | うーん…。 |
三嶋 | 僕とかはなんていうか、「この作品は、こうこうこういうことを表している」、って方なんです。でもそういうわけではないんですね? |
江上 | そうですね。まあそこはね、僕にもありますよ。ある意味では徹底的に言語化するっていうか。そういうものはもちろんあるけれど、単純に言葉で翻訳されてしまったものは次々に捨ててしまっていけばいいんですよね。ある意味。そうやって、言語化するっていうことはさ、僕にとっても大事なことですけれど、なんかこう言葉で解決できないことはね、あるとおもうんですよ。 |
三嶋 | えっと、その軽さって話がありましたけど。その軽さに対する志向は、元々あったのですか?80年代の、作品をつくり出したころから、その軽さっていうものはやっぱり強く意識されていたんですか? |
江上 | そうですね、そうでもないと思います。普通に考えてそんなにやっぱりそう深淵で深い思想じゃないけど、そういうものにやっぱり若い時って走ってしまうと思うんですね、絶対。だからそういうものがダサく感じる時が来るんですよ。 |
三嶋 | それって江上さんの個人的なことなのか、ある時代の要請なのか、どうおもいますか? |
江上 | 時代の要請ってのもあるんじゃないですか。たとえば蓮見重彦みたいな人が評論家でいますけれど、深淵なものじゃ無い、深さなんて関係ない、要するにこう浅い表面、ペラペラな表面がかっこいいんだ、みたいな言い方を70年代にしていきますね。そういう感覚っていうのは僕らにとってある意味じゃ時代的に、非常にビビビってくるものだったんですよ。 |
三嶋 | 今も有効だと思います? |
江上 | どうかな。蓮見重彦は有効かどうかは知らないけど、そのラジカルさみたいなものがやっぱりなんかどっかであるんじゃないかな。 |
三嶋 | こう、パッとみて分かるというか、これも感覚的な話かもしれないけど、江上さんは濃い色を使われない。なんというか、軽い色を使われて、今でもそうやってやられているっていうのは、やっぱり個人としては今もそういう軽いものを志向されていて、今も有効であるっていうことですよね。 |
江上 | そうですね。だからこう、重さとか深さとかを全面に出すやつは、ある意味じゃファシストだっていう考えがね、僕のなかにあって、そういうなんかこう深いものを、「どうだこれだけ重いじゃん、これだけ深淵だ」とかって言える人をね、あまり信用しないんだよね、基本的に。 |
三嶋 | またこれ世代論みたいな話になっちゃうんですけど。今ですよ、日本が右傾化されてるとかいうおおざっぱな話があって、僕とか今34になるんですけど、学生運動とかやったわけではないし、強い時代精神みたいなものを強く感じたような人間ではないんです。で、江上さんは、その70年代、60年代後半に、学生運動をされる一番最後くらいの世代で、まあそういう熱い人達がいたわけですよね。当時。それに対するこう、「うぜぇ」くらいの意味で、そこから離れる、距離をとるっていうことでの軽さっていうのは、すごく自分のなかで納得のいく説明なんです。逆に僕らは、元々そういうものがない。強く寄っかかるなにか強い思想っていうものがない。そういうもののない人間にとって、それなのに軽いことをやったって、意味があるのかなっていうか。今の時代に。 |
江上 | それはまあ、分からない。僕には。確かに今いったように僕らより前の世代の人たちはやっぱりそういう重たさ、そういうものを示しているところがありましたね。重くて深くなきゃいけない。そういう感じがありましたね。だから僕はそれに対するある種の反発や距離感っていうものを、たぶんもったんだと思いますね。 |
三嶋 | はい。もうそろそろ終わりにしたとおもいます。今も福岡でずっと作家活動をされていて、このテトラっていうところは2004年に始まるんですけど、その頃にIAFも体制が変わって、僕らくらいの世代の人たちが運営されるようになったりとか、SOAPができて三号倉庫ができてって、僕らがとか、そういう世代の人たちがいろんなことをやっているっていう状況がありますよね。そういう人たちに対して、なんかいいたいことありますか? |
江上 | いや僕にはとにかく、はっきりいって、若い人たちがどういうことをやろうとしているかっていうのは、はっきりいって、分かりませんけども、とにかく美術っていうものは地味な作業だし、お金儲けにつながるような、そういう経済的な見返りなんてほとんど、期待してもほら、しょうがない世界ですよ。 |
三嶋 | あ、そうですか。 |
江上 | まあ、ある意味で。難しい。とてもこんなの。だからとにかくね、長く、地味なことをこつこつ長くやっていくっていうんですか。それを願う、願うだけなんです。だから、その中で、どういうことを若い人たちがやっていくのか、を、僕はただ、こう、見せてもらうっていうか。 |
三嶋 | なんかある種の傾向とかつかめたりしていませんか? |
江上 | うーん、どうでしょうかね。まだ分かんないもんね。 |
三嶋 | わかりました。じゃあ、45分くらいたったんで、あんまりまとまりのない話になったんですが、話としては終わります。今後は再来週、16日にうちの遠藤と、(SOAPの)宮川さんがいらっしゃって話をすることになっています。そちらでもっと面白話が聞けるとおもうので、ぜひいらっしゃってください。一応今日はこれで終わります。ありがとうございました。 |
江上 | もっとさ、質問とかとらなくていいの? |
三嶋 | 個人的な質問は江上さんにどんどんされてもいいし、当然江上さんIAFにいらっしゃるので、そちらにいってとっつかまえればいつでもなんでも聞けるんで、ここでしなくてもなと思います。 |
江上 | ゆっくり、飲んで話していきませんか。 |
江上計太の生き抜き方(3/3)